主宰者挨拶
《 風の賦 夢幻CONCERT PROJECT 》 に寄せて
「風」と一口に表現しても使用される状況でその意味は多種多様である。具体的な気象としての「風」だけでも微風から強風、暴風、台風までとその強さ、威力により多くの名前をもつ。
また強さの違いだけではなく春夏秋冬に亘る季節ごとの風にも沢山の綺麗な名前が与えられており、春は東風(こち)、風光る、清明風、梅風、木の芽風、夏は南風(はえ)、薫風、青嵐、麦の秋風、青田風、涼風、秋は金風、白風、野分、悲風、尖風など、そして冬は空っ風、乾風(あなじ)、玉風、朔風、木枯し、冴ゆる風など実に詩的で風雅な表現の宝庫である。
さらに「風」には抽象的な意味としての表現も多く、「ふう」と読めば様式や表現手法の類似性を表し、神風には人智を超越した不思議な力を感じ、隙間風にはどことなくマイナスのイメージが付き纏う。
また風通しの良し悪しはその場の環境の雰囲気を推し量るバロメータでもある。加えて「松風」といえば周知の通り「茶の湯」を象徴する。斯様に「風」のもつ表現力は森羅万象に及ぶ。改めて先人の言葉に対する豊かな感性を禁じ得ない。
私たちの生活や仕事の基盤にも「風」は吹く。「風土」と表記すれば一層身近に感じるかもしれない。永い歴史に裏打ちされながら現在に至り、加えて私たちを未来へと誘う「風」でもある。過去、現在、未来を貫き、また時空を超えて自由に行き来できる「風」の魔力に思いを致しメインタイトルとして「風」に着目した。
また、「賦」について、これは「風」と「賦」は共に六義(りくぎ)に含まれる概念である。出典は四書五経の 一つ『詩経』の大序に出てくる言葉で、詩の六種分類を内容上「風」「雅」「頌」に、表現上「賦」「比」「興」 に分類するが、ご案内の通り紀貫之が古今和歌集の仮名序、真名序で援用したことは古来より知られている。
本プロジェクトは音楽であるから楽譜の「譜」を当初考えたが上記六種の分類(六義)は詩作に限らず広く芸術全般の創造行為に共通する概念でもある。それ故に本プロジェクトの主題を《風の賦》とした次第である。因みに「風」は各国の歌、民謡を指し、「賦」は対象を直叙する方法を指す。
もとより日本の文化には多様性と柔軟性が深く息づく。この多様性と柔軟性があるからこそ時代の風、その場の風を的確に捉え、他に例をみない独特な文化が実現した。そこに通底しているのは「不易と流行」の精神である。
音楽を始め芸術分野の創造に携わる表現者、アーティストには守るべき伝統を見極め承継する使命があり、加えて時代の風味を添えながら新しい命を吹き込むことが求められよう。温故知新は言うは易く、実践は頗る難しいが、それをクラシックを主体とした音楽文化の面で実践するべく企画したのが本プロジェクトの骨子である。
将来有望な若手から現在精力的に活動している中堅、そしてベテランで指導的立場にあるアーティストの皆さんにそれぞれ実践する「不易と流行」を期待したい。
ご出演頂く演奏家、アーティストは等しく芸術文化の担い手であり演奏という営みを通じて高格、高品位な文化の価値を未来へと繋ぐ主人公でもある。
かてて加えて、演奏者だけではなく、この小空間に集う人々が芸術文化の主要な構成員であるという意識を覚醒させ、「良質な聴衆は良質な文化をつくる」という側面にも着目したい。一期一会のコンサートの中に作曲者、演奏家、聴衆そして技術者が同心円状に並び互いに見えざる糸で連結されている。
恰も世阿弥の能楽における「複式夢幻能」の如くであり、この小空間で展開されるコンサートを「夢幻コンサート」と名づけたのもまさに能楽からの派生を見据えてのことである。
能楽を大成させた世阿弥には「風姿花伝」という傑出した能楽書がある。これにも「風」がつく。風姿とは風体のことであり、さらに「花鏡」という能楽書で世阿弥は「瑞風(ずいふう)」に言及している。天性の力からでた風体で、生得の優れた芸風を意味する言葉である。格と位を主軸とする「風の賦」の通奏低音として常に意識したい。
作曲家が記し演奏者が奏でる「音」は「響き」であると同時に「意味」を有する。表現という営為の果てしない深みは芸格と品位によってもたらされるものであり、鑑賞者はそれを見極め聴き分ける力を養わなければならない。
ところで、オリンピック・パラリンピックの誘致を機に矢鱈と「おもてなし」の言葉が目に付くようになった。
「もてなす」の本来の姿は控えめな仕種の中に他者へのきめ細かな心遣いや気配りが散りばめられていることで簡単に出来ることではない。長い年月の積み重ねを経て、自然と滲み出る態度や雰囲気である。
京都の老舗旅館の一つに文政元年(1818年)創業の柊屋があり、その玄関に入ると『来者如帰』の扁額が目に入る。「来る者、帰るが如し」とは「我が家に帰ったような寛ぎを提供いたします」という心構えだ。歴史と伝統の重みを内面に抱えながら万事控えめでさり気なく、それでいてきめ細かい。「もてなし」の極意、ここに極まれりといった感をもつ。
西洋にも同様な言葉があった。ドイツのロマンティック街道沿いにあるローテンブルク城の螺旋門外壁に書かれている文言で、ラテン語で次のように記されている。
Pax intrantibus,Salus exeuntibus Benedicto habitantibus.
(来たる人に安らぎを、去りゆく人に幸せを、留まる人に祝福を)
歴史を紐解けば上記の言葉は1586年、レオナルド・ヴァイドマンによって螺旋門の一角に刻まれたが、意味するところは群雄割拠の時代でもあり「もてなす」の精神とは真逆で、相手を油断させるというのが裏の意味というから驚きである。ここでは言葉通りの意味を素直に味わいたい。
そして一期一会のコンサートの中に、この「もてなす」の精神を実践できれば幸いである。そのためには環境を整えることも重要であり、優れた会場や楽器(ピアノ)をより良いコンディションで提供することは奏者と聴衆に対する最低限の責務であると心得る。
「もてなす」の心構えは一期一会のコンサートにおいて「今この瞬間を楽しむ」という姿勢を喚び起す。Carpe Diemである。この概念は西洋ではキリスト教が登場する前の紀元前にホラティウス(65~8BC)の次の一文が基になっている。
‘carpe diem,quam minimum credula postero'(Carmina,1:11)
(その日をつかめ 明日のことはできるだけ頼みにせず)
黒澤明監督の名画「生きる」の主要テーマはまさにこのCarpe Diemの精神にあった。長い歴史に裏打ちされた精神である。仰々しく大上段に構えた姿勢ではなく、身近で生起する小さなことにも楽しみを見いだせる精神を養いたい。
そして小さな空間でのコンサートに集う演奏者、聴衆、技術者やスタッフといった全ての人がこの精神を共有できればこれに過ぎる喜びはない。
明治以降日本は西洋に「追い付け」「追い越せ」の気概で産業、文化、芸術、スポーツといった様々な分野で眩い成果をあげ今日に至っている。特に若い人たちの国際的活躍は頼もしい限りで、また層も厚く喜ばしい。
その中で文化・芸術の分野はスポーツ界に見られるような強力なサポートシステムが脆弱であることを危惧する。優れた才能は個人のみならず社会の宝でもある。さればこそ社会全体でそのような逸材を支えていく必要があるのではないだろうか。
そのような思いから、小さな一歩だが「風の賦 夢幻CONCERT PROJECT」を立ち上げた次第である。
「風の賦 夢幻CONCERT PROJECT」主宰:増田 英明
2019.08.30. 改訂
公開日:
最終更新日:2019/09/15